慶應義塾大学出身の経済愛好家として活躍する肉乃小路ニクヨさん。超名門校出身のエリート街道を歩んできた彼女の学生時代には、どんなドラマがあったのでしょうか。
この記事でわかること
- 肉乃小路ニクヨさんの高校・大学の詳細な学歴
- 渋谷教育学園幕張高校時代と慶應義塾大学SFCでのエピソード
- 大学受験の動機と学生時代に経験した挫折と成長の物語
肉乃小路ニクヨの学歴一覧
肉乃小路ニクヨさんの学歴は以下の通りです。
- 小学校:千葉県内の公立小学校(校名非公開)
- 中学校:千葉県内の公立中学校(校名非公開)
- 高校:渋谷教育学園幕張高等学校(1994年卒業)
- 大学:慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(SFC)総合政策学部(1999年卒業)
幼少期から千葉県で育ったニクヨさんは、公立の小中学校を経て、千葉県屈指の進学校である渋谷教育学園幕張高等学校に進学しました。
小中学校時代:孤独な経済少年
友達が少なく、数字に夢中だった子ども時代
肉乃小路ニクヨさんは姉が2人いたこともあり精神的に大人びており、さらに本人曰く「ひどいコミュ障」だったため同級生とはあまり話が合わず、友達が少なくテレビばかり見て育っていました。
しかし、その孤独な時間が経済への興味を育てることになります。プロ野球の打率や打点、防御率、観客数などのデータ数字や新聞で株価の推移を見るのが楽しかったとのことです。
あまり友達がいなかったので新聞も熟読し、CMを見て覚えた企業名を株式欄で見つけて、数字が毎日動いていることに興味が湧き、株価を毎日チェックするようになりました。
中学受験での挫折
小学生時代から聡明だったニクヨさんですが、中学受験では失敗を経験します。「評判の悪い公立校に行くのが怖かったが、受験に失敗し公立中学に行った」というエピソードがあるので、小中共に故郷である千葉県の公立学校だと思われます。

この挫折経験が、後の高校受験へのモチベーションになっていきます。
渋谷教育学園幕張高校時代:不本意な入学から人気者へ
千葉県トップクラスの超名門校

渋谷教育学園幕張高等学校は、千葉県内でトップ、全国でも上位にランクインするほどの超名門校です。

水卜麻美アナ、田中圭さんも同じ高校です
しかし、ニクヨさんにとってこの高校は第一志望ではありませんでした。高校受験は慶応、早稲田と試験を受けたようですが落ちてしまい、滑り止めで受けた幕張高等学校へ入学となったようです。
最初の挫折から人気者への変貌
不本意な入学だったため、最初は学校生活になじめませんでした。1学期は誰とも口をきかなかったそうですが、ある出来事をきっかけに吹っ切れ、そこでも人気者になっていったといいます。

この高校時代、ニクヨさんは将来への明確なビジョンを描き始めます。
落合信彦への憧れと慶應受験の決意
高校時代は落合信彦さんが大好きで、落合さんが描く米国政治や石油ビジネスの世界に登場する、情報とインテリジェンスを活用してグローバル社会で活躍する人々にとても憧れました。
慶應義塾大学にした理由は、CMに出ていた落合信彦さんがカッコイイと思ったからだそうです。落合信彦さんが慶應義塾大学のCMに出演していたことが、ニクヨさんの進路選択に大きな影響を与えたのです。
慶應義塾大学SFC時代:挫折と自己発見の4年間
SFCを選んだ理由
自分も米国の大学に留学して国際ビジネスの世界に飛び出したいと思ったものの、コミュ障の自分にはそんなことはとてもムリと考え、日本の大学で米国のリベラルアーツに最も近い大学はどこだろうと探し当てたのが湘南藤沢キャンパス(SFC)でした。
SFC設立に尽力し、初代総合政策学部長になった経済学者の加藤寛先生が憧れの人で、「加藤先生に教わりたい!」という一念でSFCにターゲットを定めて受験勉強に取り組み、今度こそ合格を果たすことができました。
大学1年生の苦悩
念願叶って慶應義塾大学に入学したものの、大学生活は順風満帆ではありませんでした。
1年生のころはつらいこと多くて、学生生活を楽しめなかったといいます。周りにはお金持ちの子が多く、みんな華やかですごくキラキラして見えました。アルバイトもしていないのにご飯をおごってくれる先輩がいたりして、「いったいそのお金はどこから出ているんだろう…」と不思議でした。
SFCに入学した私はコミュ障をこじらせてしまい、他の学生と親しく交流することができませんでした。裕福そうな学生が華やかなキャンパスライフを過ごしているのを横目で見ながら気後れしてしまいました。
入学直後に当時、新入生が参加するフレッシュマンキャンプという宿泊行事があったのですが、そこでセクシュアリティを含めて「みんなとは違う自分」を改めて意識させられたことも引きずっていました。
父の病気と休学
さらに大学1年生の夏、ニクヨさんは大きな試練に直面します。
大学1年の夏に父親のがんが発覚し「戻ってきてくれないか」と言われ、ひとり暮らしを解消して千葉の実家に戻ることになりました。実家から大学のある神奈川県の藤沢までは片道3時間以上かかるため、通うことが厳しくなり、1年間休学することにしました。
休学中は、塾講師をしながら父の看病を手伝っていました。そして、翌年秋に父を看取った後で大学に復学しました。
自己発見と女装デビュー
この休学期間が、ニクヨさんにとって自分自身と向き合う大切な時間となりました。
それまで割と優等生でやってきたので、レールからはずれることが怖くて、「恋愛なんて私、興味がありません」みたいな「不思議ちゃん」キャラを演じたりしてきたのですが、自分の心を偽ることにだんだん疲れてしまいました。どうすれば自分を受け入れることができるのだろうと悩んでいました。
じっくりと考えた結果、まずは自分自身のことをきちんと理解し、説明できるように理論武装した上で前に進みたいと思い、同性愛について書かれた本や雑誌などを徹底的に読みまくったといいます。
まず休学中に始めた塾講師のアルバイトでためたお金でパソコンを買いました。学業のためだけでなく、パソコン通信のゲイコミュニティで仲間を見つけ、一念発起して実際に新宿二丁目にも足を運びました。
大学在学中の1996年に女装を開始し、1999年にはドラァグクイーンの全国大会「DIVA JAPAN」で優勝を果たします。
SFCでの学び
ドラァグクイーンとしての活動が忙しくなったものの、SFCでの学びは今でも役立っているとニクヨさんは語ります。
大学に復帰したものの、ドラァグクイーンとしての活動が忙しくなってしまい、SFCの成績はひどいものでしたけど、面白い講義はたくさんありましたね。
また、SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)でパソコンの入力には慣れており、後の金融業界での仕事でも、周りのおじさんたちが苦手だった電話しながらのデータ入力をスムーズにこなすことがでたとのこと。
学歴が示す「たたき上げ」の精神
一見すると華やかなエリート街道に見える肉乃小路ニクヨさんの学歴ですが、本人は自分のことを「エリート」とは考えていません。
「周りのおじさんたちは、電話しながらのデータ入力が苦手だったんですけど、私はSFCでパソコンの入力には慣れてたから、そういったところから必死にのし上がっていった。全然エリートじゃなくて、たたき上げなんです」と語っています。
渋谷教育学園幕張高校も慶應義塾大学SFCも、どちらも「滑り止め」や「次善の選択」として入学した学校でした。しかし、そこでの経験が今のニクヨさんを作り上げています。
慶應義塾大学の同級生
興味深いことに、肉乃小路ニクヨさんと同じ1975年生まれで、同じ慶應義塾大学の同級生に、女装家のミッツ・マングローブさんがいます。
同じ女装家のミッツ・マングローブさんと同じ年齢で、慶應義塾大学の同級生になります。同じ大学同じ学年にミッツ・マングローブさんと肉乃小路ニクヨさんがいたと考えると、キャラが濃い大学・学年だったと思います。
まとめ:挫折を力に変えた学生時代
肉乃小路ニクヨさんの学歴を振り返ると、そこには多くの挫折と葛藤がありました。
- 中学受験での失敗
- 高校受験での第一志望不合格
- 大学1年生での孤独と疎外感
- 父親の病気と休学
- セクシュアリティとの向き合い
しかし、これらの経験すべてが今のニクヨさんを形作っています。渋谷教育学園幕張高校で学んだ学力、慶應義塾大学SFCで身につけたITスキルと組織論の知識、そして何より、自分自身を受け入れる勇気。
渋谷教育学園幕張高等学校から慶應義塾大学へ進学し、卒業後は金融業界で働いていた経歴は、一見華やかに見えますが、その裏には本人の努力と試行錯誤の日々がありました。
2025年に50歳を迎えるニクヨさんは、現在もその学びを活かしながら、経済愛好家・コラムニストとして活躍を続けています。学歴はあくまでスタート地点。そこから何を学び、どう生きるかが大切だということを、ニクヨさんの人生は教えてくれます。




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