榛葉賀津也の実家はお茶農家!父親は議員でウサギ20匹と暮らしていた過去も

政治
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国民民主党の幹事長として注目を集める榛葉賀津也(しんばかづや)氏。

そんな榛葉氏の政治家としての基盤には、実家での厳しい教育と父親の影響がありました。この記事では、榛葉賀津也氏の実家や父親について詳しくご紹介します。

榛葉賀津也の実家は静岡県菊川市

榛葉賀津也氏は1967年4月25日、静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)で生まれました。実家は両親、姉、兄、曾祖母、祖母、祖母の妹という8人家族の大家族でした。

菊川市はお茶の名産地として知られる自然豊かな地域です。榛葉氏の実家もお茶の生産に関わっており、地域産業との深い結びつきの中で育ちました。実際に、榛葉氏は落選中に緑茶やコーヒーの販売を手がける会社を経営した経験もあり、地元の文化や産業への理解の深さが窺えます。

実家では20匹以上のウサギを飼育しており、ウサギへの餌やりは子供たちの仕事だったそうです。父親がウサギ年生まれだったことがその理由だったというエピソードも残っています。

当時、我が家は20匹以上のウサギを飼育していて、ウサギへの餌やりは子供たちの仕事だった(写真左側にウサギ小屋があった)。時折、薬品会社の男たちがやってきて、何匹かのウサギをまとめて持って行ったのを記憶している。(それが何を意味しているのかを理解したのは、相当後になってのことだった・・・)以前、父に「なぜウサギ飼ってたの?」と聞くと、「だってお父さん、うさぎ年生まれだから・・・」の答え。解かりやすいというか、意味不明というか・・・。

https://k-shimba.com/profile

現在はヤギを飼育。幼い頃から動物と深い関わりがあったことがわかりますね。

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厳格だった父親・榛葉達男氏とは

榛葉賀津也氏の父親は、榛葉達男(しんばたつお)氏です。達男氏は1939年生まれで、学習院大学政経学部を卒業後、地元で政治家として活躍しました。

父親の経歴

  • 1970年:菊川町議会議員
  • 1974年:菊川町長(34歳で就任、1990年まで務める)
  • 1991年:静岡県議会議員

達男氏は戦争遺児として苦労を重ねた経験から、努力と誠実さを何よりも重んじる人物でした。そのため、子供たちへの教育は非常に厳しく、「自分のことは自分でやりなさい」が口癖だったといいます。

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幼少期の牛乳配達が人格形成に影響

榛葉氏の人格形成に大きな影響を与えたのが、父親の命令で行った牛乳配達です。なんと5歳(幼稚園の年長)から中学校入学までの8年間、毎朝欠かさず牛乳配達を続けさせられました。

この経験を通じて、榛葉氏は地域の人々や中小商店の活気に直接触れる機会を得ました。雨の日も風の日も続けた牛乳配達は、「努力を続ける強さ」や「人のために動く責任感」につながり、後の政治活動の基礎となっています。

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優しかった母親・公子さんのエピソード

厳格な父親とは対照的に、母親の公子さんは優しく家族を支える存在でした。

生まれつき小児喘息を患っていた榛葉氏を、毎日電車で50分かけて静岡市内の日赤病院へ通ってくれたのは母親でした。また、榛葉氏が牛乳配達を嫌がると、父親にバレないように代わって配達に行ってくれたこともあったそうです。

厳しい父の叱責が飛ぶときも、後ろでそっとフォローし、子供たちの心のバランスを取っていたといいます。榛葉氏がまっすぐ人を思いやる性格に育ったのは、母の存在が大きかったのかもしれません。

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実家での経験が政治家としての原点に

両親は共に戦争遺児であったため、子供への躾や教育は非常に厳しいものでした。しかし、その厳しさの中にあった愛情が、今の榛葉賀津也氏を形作っています。

地域社会への貢献を重んじる父親の背中を見て育ったことが、彼の「地域に根ざした政治」や「生活者目線」の原点となっています。幼少期の牛乳配達の経験は、中小企業や地域で働く人々への理解につながり、現在の政策立案にも活かされています。

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まとめ

榛葉賀津也氏の政治家としての姿勢は、実家での厳しい教育と温かい家庭環境によって育まれました。父親の榛葉達男氏からは政治家としての責任感と努力の大切さを、母親の公子さんからは人への優しさを学びました。

静岡県菊川市という地域に深く根ざした実家での経験が、現在の国民民主党幹事長としての活躍につながっているのです。「対決より解決」を掲げる榛葉氏の実務的な政治スタイルの背景には、こうした家庭環境があったことがわかります。

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